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語り継ぐ戦争 元海軍飛行機整備兵だった田辺登志夫さん

 Uploaded by 朝日新聞社 語り継ぐ戦争 元海軍飛行機整備兵だった田辺登志夫さん (2018/07/29)

語り継ぐ戦争
元海軍飛行機整備兵だった田辺登志夫さん

昭和19(1944)年6月、15歳で志願して河和海軍航空隊(今の愛知県美浜町)に入った。3カ月の新兵訓練後、12月まで整備の練習生として勉強。鹿児島、大分の基地に配属され、終戦まで実戦部隊だった。
 沖縄作戦が始まり、連日、特攻機を送り出した。徹夜で整備し、明け方、出撃を見送った。でも空襲で工場がやられ、飛行機が届かない。最後は練習機まで出した。3機編隊なら2機は無線も機銃も外されていた。それに練習不足の若い搭乗員が乗って出撃していった。
 それでも何機特攻機を出せ、という命令が下れば、現場は出さなくてはいけない。結果が伴わなくても、ですよ。搭乗員も従った。軍隊はすべて「員数合わせ」だった。シャツも靴も銃もすべて天皇陛下からの支給品だ。絶対無くしたらいかん。たたき込まれた。無くしたら、盗んだ。それで数があえばいい。
 何でも競争だった。射撃や水泳、カッター、さらにハンモックをつるのも片付けるのも、掃除もその道具を素早く取るのも、全部競争だ。遅いと罰直です。よくやられたのは、おしりを木の棒で殴るバッターです。
 10~20人の班に分かれて行動した。誰か成績が悪いと、連帯責任で全員罰直です。だんだん弱い仲間をかばうようになる。それは効果だな。憧れていた軍隊はまるで違う世界だった。欲を捨て、上官や先輩が何を望んでいるか、読み取ろうとした。いいことも悪いことも徹底的に合わせた。それが自分との闘いだった。
 鹿児島では、サツマイモ泥棒をした兵隊がバッターの後、柱に縛られ、放置されたことがあった。同年兵が夜、握り飯を届けた。そいつの何が悪かったのか。盗みじゃない。農家につかまったのが悪い。私もナスやキュウリを盗み、一夜漬けにして班長に出した。泥棒はみんなやっていた。
 かと思えば、私の場合、将校用の炊事場の班長と妙に気が合い、時々、ごちそうを分けてもらい、それを自分の班長に出していた。おかげで気に入られ、制裁を免れていた。
 男ばかりの世界で少年兵を寝床に引っ張り込む班長もいた。夜中に部隊を抜け出し、下宿させた女房のところへ出かけるのもいた。
 そして突然、終戦。昭和20年8月20日、復員列車に乗った。忘れられないのは広島だ。夜に着き、駅のホームで、米を空き缶でたいて食べた。翌朝、駅の周りが何もないのに初めて気づいた。動く人の姿もない。何百人もの復員兵があぜんとしていた。原爆のことは何も知らされていなかった。




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